とらぷーる

退屈な時間のつまみにどうぞ

2024目標上方修正

2024年の目標を具体的に修正する。

周りに宣言するか期限を設定しないことには動き出さない性格のため、ここで公開しておきたい。

どうせまた変更が加わることもあると思うが、下方修正しないようには気をつけたい。

 

学業:春秋フル単。

就活:長期インターン再開、3月末までに内定。

バイト:運営を中心で回す。

読書:2週間に一冊以上。年間30冊。

運動:ジム契約か自宅で、ジムの値段が高いため足踏み。3月末までに始める。

貯金:運用はしない。12月までに10万円貯金。1ヶ月1万円が妥当か。

ブログ:月1本以上。年間12本。

 

短期的には年末まで

中期的には就活まで

長期的には30歳ごろまでを見据えての逆算。

大きな変動はないと思うが、病気怪我障害等で変更を余儀なくされた場合は修正。

年末に統括しようと思う。

 

次のブログは「『青のすみか』から考える青春という残酷さ」をテーマに考えている。

そろそろちゃんとしたものを書かないといけないと思っているので頑張ります。

では。

アジア杯は優勝してください

1-2

敗北である。

日本時間 20:30にキックオフを迎えた、アジア杯準々決勝。日本と対するはイラン。

前半に先制するも、後半押し込まれて失点。打開策を時間内に打てず、我慢できずにPK献上。

明らかに大会初期から様子がおかしいキーパーを信じるしかなくなった時点で詰んでいた。

詳細なマッチレビューを書くには時間がかかるし、荷が重いと書く気にならんので今日はマッチレビューはしない。今は優秀な記事をキャッチアップする術がたくさんあるので、そちらを参考にすると良い。

 

私はこの大会、日本が優勝できるだろうと踏んでいた。世のサッカーサポーターたちの中には、漠然とそう思っていた人たちも多いのではないだろうか。

私はアジア杯の結果に賭ける思いが非常に強い。

正直W杯より結果を出して欲しい。

理由は主に5点

①負けるところを見たくない。

②優勝することによる代表人気という影響力向上。

③他チームと日本の選手の戦力差(個人能力差)

④ずっとホーム開催である中東の勝利は面白くない。

 

そして途中からだが

⑤あくまで疑惑である、というかかなり裏を感じる嫌疑によりチームを去った選手がいた

 

まず、選手の戦力差を考えるに、日本は優勝候補の最右翼と評されて当然で合った。

また、優勝するとしないとでは明らかに世間からの扱われ方が違う。コアなファンではない限り、結果が絶対的な判断軸である。いい試合をしても、数年先のW杯に希望があるとしても、今勝たなければそのときまでの「期待の繋ぎ」すら用意されない。

世界からの注目度も市場規模も既にサッカーより低いにも関わらず、ノイローゼになるほど狂ったように大谷、大谷と野球報道を繰り返すメディアへの露出度を増やすには、各大会で結果を出すしかない。

 

また、中東方面での開催が板についてきたことで、中東国がホームとして戦っていることも、結果を出してほしい一因である。

南米のチームが、コパアメリカになると強度や練度が豹変して強くなるのと同じように、中東も独特な雰囲気故か、ホーム開催により強い恩恵を受けていると見受けられる。

JFAの敗戦結果を知らせる投稿に、国旗や絵文字で煽りを入れてくる民度の低い中東サポーターを駆逐するためにも、日本がアジアの頂点であると示す必要性がある。敗者に口無しであるからだ。

 

また、教養のない者が、昔の自らのゆるい行動を告発し、あたかも一方的に襲われたかのように振る舞い、それにより男を社会的に抹殺しようとするムーブメントにより、遂に代表選手からも離脱者が出た。勝ち進み、連帯を示すためにも、優勝という結果が欲しかったところだ。代表とは、クラブチームとは違う、国に対してのメッセージや表現を行える場であるし、大勢がそれを目撃する。(2022ドイツ代表のように、それに躍起になり負けるようでは意味がないが)

 

PKを決められた直後から硬直し、黙り込む選手を見て応援するサポーターなどいない。

欧州から招集され、アウェーの中心身ともに疲弊していても、アジア杯は優勝して然るべき大会なのである。もはや今の代表にとって、最低側の目標が優勝である。

 

2年後、4年後ではない。過去の戦績でもない。

思い出なんかいらん。

敗戦は敗戦である。糧になるのは次に活かして勝利したその瞬間である。

私が欲しているのは公式戦での結果。勝負強い僕らの代表に、手のひらを返し焼き土下座をする日を、私は待ち望んでいる。

 

砂漠を読む

「砂漠にも雪を降らせることができるかもしれない」そんな一冊を読み終わった感想文である。

 

1.砂漠へと向かう

2.砂漠

 

1.砂漠へと向かう

著者は伊坂幸太郎

仙台のとある国公立大学の法学部に在籍する生徒5人を中心に描かれる青春小説。

主人公の名前は北村。本人も自覚する鳥瞰型の人間であり、そのどこか冷めた視線から話が展開されるため、個々人の性格が際立ってみえる。

大人しいが半端ない超能力を持つ女性である南。大多数の人間には理解できないであろう自らの信念を持つ強烈キャラだが、どこか憎めない西嶋。まるでモデルのような美貌を持ちながら、他を寄せ付けないツン系女性の東堂。の東西南北の4人と、典型的な大学生ノリを体現する鳥井の合わせて5人。

4年間と四季を対応させ、1年生の春、2年生の夏、3年生の秋、4年生の冬、とそれぞれ独立した話が描かれる。

その中には合コンに挑戦する話や、超能力者とリアリストな学者の対立に躍起になる話や、ひょんなことから刑事事件に巻き込まれる話など、大学生といった時間を持て余す日常と、不意にやってくる非日常と向き合いながら、社会という砂漠に旅立つまでの5人の4年間がありありと描かれている。

なんてことのない大学生活が描かれるわけだが、だからこそ名著と評されるのだろう。なぜなら、

 

なんてことのない大学4年間を、砂漠へ足を踏み入れるまでどのように過ごすか

 

という問題提起がなされているように思えるからだ。

メインである5人の他にも、様々な学生、社会人が織り交ぜられながら話が進むわけだが、当然砂漠をどう捉えるか、砂漠をどう生きるのかも各人によって違っている。

舞台はあくまで5人の大学生活だが、随所に見え隠れする砂漠という広大な現実が、否応なしに時間という制約を主人公に、そして読者に思い起こさせる。それは砂漠へと旅立つまでの最後のモラトリアム(オアシス)をどう生きるのかという大学生の至上命題を眼前に突きつけてくる。

しかし、そのメインテーマには明確な答えを用意せず、伊坂幸太郎お得意の伏線回収とテンポの良い会話で物語を成り立たせている。

実際、主人公たちは特別な力を持つわけでもないので、平凡だが特別な思い出を堪能した後は、無情にも砂漠へと旅立っていく。そこには大学生活4年間をどう過ごしたかなど意に介さない無機質な時間という存在が、まるで主人公たちを飲み込んでいくように感じられる。

では、その姿を見て私たちは何を感じるのか。

どう4年間も過ごすのか。

その形は、小説という起承転結が綺麗に用意されている代物でも、決して定められなかったモノなのである。

 

つまり、どう過ごそうが最終的には砂漠へと旅立たなければならない。

 

ということである。

この作品は、まだ初代スマートフォンが世に出始めた頃の時代背景であるため、SNSが作品に絡むことはない。だからこそ、他者と自分を安易に比較して自ら迷宮に突き進んでしまう我々が参考にするべき姿勢が、存分に収められていると言えるのではないだろうか。

前述の通り、メインキャラクターたちは親友と呼べる間柄として描かれるが、その性格や個性は誰1人として重複しない。各々が各々の大学生活を過ごしている姿が見て取れる。4年間という道中で出くわす時々の問題に四苦八苦し、これで正解なのかという葛藤を抱えながらも、大学生として成長をしていくのである。

 

そこには他者との比較による成長など存在せず、自堕落でも、意識が高くとも、各自が自分なりに選択した答えの中で成長を重ねている。

 

どう過ごそうが時間は等しく、そして限りのあるものである。他者が過ごす生活を模範解答と決めつけて自分に当てはめたところで、砂漠が否定するわけでも、ましてや褒めてくれるわけでもない。

言ってしまえば、砂漠の中でこそ答えのない中で奮闘しなければならない。

 

主人公たちのように麻雀に明け暮れる日があっても、刑事事件に巻き込まれることがあっても、その過ごし方に正解も不正解もない。

 

答えのない砂漠に飲み込まれないよう大学生活で求められるのは、自分自身で砂漠への道を選ぶことなのである。

 

 

2.砂漠

筆者の周りでも、将来を見据えて現実的な動きをする人が増えてきた。遊んでいた友達と予定が合わなくなるのも、先輩が大変そうに生活しているのも、その姿を見る度に自分にもその時期が差し迫っていることを実感する。

私たちに残されている旅立ちまでの猶予は、そう長くはないのかもしれない。

刻一刻と変化し続ける砂漠は、時に人を迷わせ、孤独に陥れることもあるだろう。しかし、必死に立ち向かえば、いつか学生生活などと比較にならないオアシスを見つけることだって、きっとできるはずである。

それでも砂漠へ旅立った後私たちは、方角も分からなくなり、友人たちと疎遠になり、恋人と別れ、思い出も色褪せ、それでも過去に縋ろうとして、過ごしてきた日々を後悔してしまうのだろうか。

いや、

 

なんてことはまるでない、はずだ。

「暴力と呪縛からの解放」をテーマに考える愛という可能性-進撃の巨人コンテンツ完結に寄せて-

 

進撃の巨人-attack on taitan -という作品をご存知だろうか。圧倒的な力を持つ巨人と、巨人に争う人間という構図で描かれたダークファンタジー作品である。原作、諫山創が描いた美しくも残酷な世界は、2009年の連載当初から物議を醸し、2013年のアニメ放送によって一気に日本全国、海を超えて全世界へと名を轟かせた。そのアニメ版は第1期から完結編まで、一貫して高品質な作画を提供し続け、2023/11/5にとうとう最終回を迎えた。

様々な問題提起がなされ、描かれたテーマは一つではないだろうが、私はその進撃の巨人を総評するなら

「自由の奴隷となった主人公をメインに据え、一方でヒロインには選択による自由の愛を背負わせた究極のロマンス作品」であると評する。

本作では、進撃の巨人アニメ完結を祝して、進撃の巨人から考察する、"私たちの世界"に十分に適用可能な愛の可能性について述べていく。

また長くなりそうではあるが(笑)、進撃を読んだことのない人にもできるだけわかりやすく解説を加えながら述べていくので、ぜひご一読いただきたい。拙い文章ではあるが、愛に悩む方々の一助になれば幸いである。

 

1.ユミル 愛という奴隷

2.ミカサ 愛という解放

3.リヴァイ 愛という選択

4.最愛を考える

 

1.ユミル 愛という奴隷

物語のあらすじを書いていては埒があかないので、最終章をメインにして考察する。

登場人物は

  • エレン(主人公)
  • ミカサ(ヒロイン)

↑現代

  • 初代フリッツ王(クズ男、物語の元凶)
  • ユミル(フリッツ王の奴隷、最初の巨人)

↑過去

の4人が軸である。

進撃を読んだことのない方は、

  • 巨人の正体=人間。
  • ユミルが世界に最初に表れた巨人。
  • エレンは色々あって、自らが巨人となり世界を平らに踏み潰す「地ならし」により、世界滅亡を図る
  • ミカサ陣営はそのエレンを止める
  • 最後は主人公のエレンをミカサが殺す

という構図で動いていることだけを認識していただければ大丈夫である。

 

ここからは物語の事実を抽出した後に、我々の世界に適応できる愛を考察する。少し難解であり、読んだことのない方には面白くない話が続くが、じっと堪えてほしい(笑)

まず注目して欲しいのは、ミカサ(ヒロイン)とユミル(最初の巨人)が同じ立場で描かれていることである。そのことこそ、選択による自由の愛という結論の核となっている。

 

  1. 2000年も昔の話、ユミルという寂れた村で暮らす奴隷がいた。
  2. f:id:fc_torapool:20231108185117j:image
  3. ユミルはある日村の家畜である豚を故意に逃したことで村を追放され、そこで原初の生物(正式名称不明)に寄生(もしくは一体化)され、巨人へと変貌。自分の意のままに巨人へと姿を変えられるようになる。
  4. f:id:fc_torapool:20231108185158j:image
  5. その力を気に入られ、フリッツ王直属の奴隷になり、巨人という力を手に入れても尚、生まれが奴隷のためフリッツ王に従い続け、道を開き、荒地を耕し、峠には橋をかけるなど、フリッツ王のために働いた。
  6. f:id:fc_torapool:20231108185302j:image
  7. フリッツ王はその巨人の力を次世代にも継承するため、ユミルとの間に子を作った。
  8. f:id:fc_torapool:20231108185322j:image
  9. ある日フリッツ王目掛けて投げられた槍を自らの命と引き換えに受け、槍から庇ったことによりユミルは死亡。
  10. f:id:fc_torapool:20231109130427j:image
  11.  そのときにフリッツ王から掛けられた言葉は「起きて働け お前はそのために生まれてきたのだ 我が奴隷ユミルよ
  12. f:id:fc_torapool:20231108185341j:image
  13. しかし、肉体は死んでも原初の生物の生命力により生も死もない世界へと囚われ、いつしか自分が抱えた未練を断ち切ってくれる存在を待つことになる。(その間も死後の世界から巨人を作り続けていた)

 

これが掻い摘んだ話の概要である。

そして最終巻で、ユミルはフリッツ王を愛していたことが判明している。

なぜか??

表面上を辿るだけでは、ユミルがフリッツ王を愛した理由は見えてこない。

愛した理由、ずばりそれは

「奴隷ゆえの愛への憧れ」

を持っていたからであると私は考える。

ユミルは奴隷のため、物心ついた時には既に舌がない。他の奴隷もみんなそうであるため、何かを言葉で教えてもらう、言葉で思いを表現する、といったことはできなかったであろう。

それに加え、身分故に誰かから優しい言葉を掛けられたこともなく、ユミルの世界はいつも、

目から見、耳から聞いた、言葉を交わすわけではない相手から与えられた表現方法こそ全てであったと考えられる。

しかし、ユミルも人間である。当然人を好きになる、愛を理解したいといった気持ちも持っていたであろう。その証拠こそ、次の描写である。

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村の結婚式らしき描写であり、それを興味深そうに眺めるユミルが描かれている。

先ほども述べたが、ユミルは言葉で何かを教えられる。といった経験を持たない。そのため、愛を漠然と理解していても、それが一体何なのかを詳しく知ることは難しかったであろう。

そんなユミルは結婚式を見て、

①男女の間に愛という気持ちが生まれ、

②愛し合うもの同士でキスという行為をして、

③その延長線上に子供を作り、

④助け合いながら生きていく。

という「行為」「行動」が前提の恋愛観を育てたのではないか、と推測できる。

 

そしてユミルはフリッツ王の奴隷となる。

最初は唯の主従関係であっただろうが、あることを転機にフリッツ王に愛という感情を覚える。

それは

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フリッツ王から持ちかけられたこの話である。

勿論、フリッツ王にはユミルへの愛情など微塵もない。巨人という能力の継承者を作りたかっただけである。(それでも、一奴隷と最高為政者が子供を作るなど、格段の待遇であったことは事実であるが)

しかし、ユミルは違う。

奴隷として育ったユミルからすれば、"愛とは行為、行動によってもたらされる。"のである。

この掛け違い、価値観の相違こそ、進撃の巨人2000年の悲劇の原因である。

子供をつくる。それはユミルからすれば最高の愛情表現に等しい。

現代を生きる我々はそれに違和感であろう。なぜならユミルは、愛は決まった原因から発生する事象であると判断しているからである。

現代の普通は「人を好きになる」→「人を愛する」→「その先にあるものが具体的な行為」

という流れが綺麗なものであると認識している。

しかしユミルは違う。「具体的な行為」→「愛」なのである。

進撃では、どちらの価値観が正しいと述べているわけではない。(ここ大事)

しかし、その価値観の相違によって引き起こされたこれから起こる事件が問題なのである。決してユミルとフリッツ王どちらかの価値観が間違っていたから問題になったのではないということを認識していただきたい。

 

そのユミルが愛という呪縛に囚われた原因となる出来事が以下である。

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ユミルが身を挺して庇った王への槍。

一読した者は不思議に思わなかったであろうか??

「ユミルは巨人なのだから、その程度の傷はすぐに回復するだろう。」

普通、巨人か巨人を継承した者は、うなじ部分から首を刎ねられることで漸く死に至る。

しかし、もう一つ巨人継承者の死因が存在する。それは、生への諦観である。

つまり、首を刎ねられる以外には、生きることを諦めた時に死ぬことがある。考えてみれば当たり前だが、巨人としての回復能力も、その能力を使うかどうかは本人次第だからである。

これは、レベリオ襲撃の際のライナーの様子からもわかる。

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正への執着を無くしていたライナーは、鎧の巨人としての姿が不完全なまま戦いへと身を投じている。

つまりユミルはこのとき、槍が刺さったから死んだのではなく、回復してまで生きる意味を見出せなかったから死んだのだ。

ではなぜユミルは死んだのか??

フリッツ王「起きて働け 我が奴隷ユミルよ」 フリッツ王の畜生発言である。

ユミルは前述の通り、フリッツ王への愛を持っていた。それは行為由来の愛であったが、ユミルからすれば正当な愛情である。

ユミルが身を挺して愛する人を守ったにも関わらず、フリッツ王からはこのとき「我が奴隷ユミルよ」と言葉を投げかけられている。

ユミルは絶望したのであろう。

自分が愛だと思い、フリッツ王の特別な存在へと昇華できたと信じていたが、生身のまま庇った愛する人からは最後まで「奴隷」と言われたことに。

ユミルはその後生も死もない世界に囚われた。

愛する人の命令に最後まで背けずに、自分の感情を押し殺して生きた、ユミルなりの愛という感情が正しかったのかという未練を抱えたまま。

死後の世界では生きていた時と同じように、フリッツ王が望んだように巨人の力を行使し続け(巨人を生成し続け)2000年後に現れる未練を断ち切ってくれる存在を待つことになる。

それがミカサである。

 

2.ミカサ 愛という解放

では、話を2000年後の現在へと戻す。

現在では、フリッツ王・ユミルと対になる関係があった。

エレンとミカサである。

2人は幼い時から共に過ごしてきた。

 

ミカサはエレンを異常な執着を見せるほどに愛しており、最終巻では、エレンもミカサを愛していたことがわかっている。

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しかし、巨人との戦いを続けた2人の思想は全く別方向へと向かうことになる。

自らが悪となり世界を滅ぼしてしまいたいエレンと

エレンを救い出して罪を一緒に背負おうとするミカサ

エレンは自らの目的達成のため、ミカサを突き放そうとする。

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「ミカサ お前がずっと嫌いだった。」

エレンを愛の対象として見つめ異常なまでの執着心を持っていたミカサに対して、エレンはその感情を知ったいたからこそ、この発言をしてしまう。

 

時代背景や関係性が違っていたとしても、愛していた者から突然自分を否定されるようなことを面と向かって言い放たれるところに、ユミルとミカサの類似点が見て取れるだろう。

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しかし、ミカサがこの発言の後取った行動は、ユミルとは違っていた。

 

ミカサは、最終的にエレンを止めることに成功するのである。エレンを殺すことによって。

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愛していた人の口から告げられた、自分を全否定するかのような言葉。そうまでしてエレンは自分からミカサを遠ざけたかったわけだが、ミカサはエレンの意向を無視して、愛する者に手を下した訳である。

エレンは、始祖の巨人と進撃の巨人の能力によって、何者かが自分を殺すことによって世界を救うことを確信していたが、それが誰なのかはわかっていなかった。

しかし、最期の瞬間のエレンの表情は、その何者かがミカサであったことに、どこか安堵しているように私には見えた。

そしてエレンの首をとりキスをするミカサと

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それを背後から見つめるユミル。

 

愛する者の命令や思い全てに服従し、最期の瞬間まで奴隷として生き絶望して死んでいったユミルと

 

愛する者の最後の言葉を無視して、愛の奴隷となりかけても相手の最善を願って手にかけたミカサ

 

そしてその行動の後、殺してしまった愛する者に対してのキス。

それを見たユミルは、今まで生み出したきた巨人を消滅させることで、巨人のない世界を創り、エンディングを迎える。

つまり、この時点でユミルの未練は解消されたことになる。

 

ユミルの未練を解消した救い。

そして

進撃の巨人全編を通して散りばめられていた愛の形。

この2つは綺麗に合致する。それは、

 

愛する人のためを思い、自分ができる最良の選択を施す愛」

ではないかと私は考える。

 

これまで見てきたようにユミルとミカサの愛は

「相手に執着心を持ち、尽くすこと」が基本で一致しているように思うが、そこから別々に派生している。

ユミルにとっての尽くすことは

「相手の命令・要望を全て聞きいれ、従うこと」

一方ミカサは、エレンに執着していたものの、作中通してエレンに従うだけだったわけではない。

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エレンにとって何が最善であるかを考慮し、その上でエレンを助けるための手を打つ、というのがミカサの行動原理であった。

エレンを殺した場面もそうであった。何も最初からエレンを殺すことに躊躇がなかったわけではない。

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エレンを殺すことを躊躇い、最後の死闘の際も迷いが生じていた。画像コマにも書かれているが、戦力から考えるにエレンを殺せるのはミカサかリヴァイの2人だけで、かつリヴァイは手負いだ。もしエレンを殺さないと判断をすれば、エレンが死ぬ結末はなかったと断言してもいい。

しかし、ミカサは決心をした。

愛する人のためを思い、自分ができる最良の選択を施す愛」を選択した。

 

ここでミカサが愛の"奴隷"のままであればユミルと同じだったであろう。

 

愛とは、「相手に縛られるもの」人によっては「愛そのものに縛られる」と言ってもいいかもしれない。すなわち、誰でも愛の奴隷となる可能性を有している。だからこそ、囚われたユミルをエレンごと解放するミカサという構図を描くことで、

愛とは何かに従属するものではない。

ということを明確にメッセージとして打ち出しているように感じられる。

ユミルはミカサとエレンという関係性に注目して、愛する人のために何をするか、最後の望みを託された時に、どう動くのかを2000年かけて待ち観察していたのだ。

自分が死んだ理由は正しかったのか。

愛の形は一つしかないのか。

ミカサが出した自らとは異なる結論。違う愛をその目で見たことが、ユミルを2000年の愛の呪縛から解放するきっかけとなったのである。

(物語の結末に沿って言えば、その光景を見てユミルはフリッツ王に望まれていた巨人の力を行使することをやめたことが、巨人のいない世界という結末を実現させることに成功したのである。)

 

3.リヴァイ 愛という選択

 

*第3章は進撃を読んだことのある方向けです。第4章からが、今回のメインである私たちの世界への愛の適応であるため、興味のない方は第4章までお進みください。

 

進撃の巨人という作品には、多様な愛が描かれている。

しかし、それはどれも愛する人のためを思い、自分ができる最良の選択を施す愛」が根底に貫かれている。

リヴァイがエルヴィンではなくアルミンに注射を打ったシーンでは、仲間への愛が描かれていると言える。

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エルヴィンをこちら側に呼び戻すことは

エルヴィンを、再び真実を追い求めるという地獄に呼び戻すと同義。

そう判断したリヴァイは、相手の最善を思った上で注射を打たなかったと言える。

仲間への愛で括ると、エレンと104期訓練兵なども対象となるであろう。

 

他に描かれている愛は、

家庭的な愛(グリシャとカルラ)

恋に近い愛(ガビとファルコ)

叶わない愛(エルヴィンとマリー)

国境を越えた愛(サシャとニコロ) etc...

家庭的な愛で言うと、ライナーとライナー母について言及しておきたい。

ライナーが天と地の戦い後にライナー母から言われた言葉

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ライナーへ溢れた本音。巨人という概念が消え、"戦士という奴隷"から解放されたライナーに対する、母親が発した本当の報いの言葉。立場も超越したその言葉が、真の意味でライナーを奴隷から解放した。巨人からの肉体的な解放だけでなく、精神からの解放も兼ねていると見ると、最後の最後に報われてよかったなぁライナー(笑)となる。

過酷な物語の中で適度に散りばめられた無数の愛を描いたピースは、最終巻によって急速に回収され、「愛する人のためを思い、自分ができる最良の選択を施す愛」を形づくった。

復習や恩讐がテーマの作品かと思ったところで、最後に伝えたかったのは愛という時代を越えても営み続けるものであると気付かされるのが、進撃の巨人が名作と評される1つの根拠なのだろう。

 

4.最愛を考える

私たちが日々思い悩む種として、恋愛が一つとして挙げられる。

相手がまだいない場合、相手がいる場合、いなくなってしまった場合でも、我々はその都度葛藤し、悩みながら前進しようとする。

何が相手のためになるのか、自分はどうやって伝えるべきか、そもそも愛は何なのかと、しんどくなってしまう人もいるだろう。

そこで、進撃の巨人の愛のテーマを参考に考えるなら

利他的な精神を持った上で、その人をありったけ本気で愛すること

が一つ指標としてわかりやすいのではないかと考える。

利己的な心では、まるでユミルを奴隷としてしか見なかったフリッツ王であり、自分の心のためなら相手に無理を敷いてもいい。となりかねない。

しかし、たった一言ではあるが、フリッツ王の言動がユミルを愛で呪うことに繋がり、悠久とも言える時間に囚われる原因となった。

 

利他的な心を持ち、相手にとっての最善とは何かを考えること。

 

ミカサは私情にとらわれず、最後はエレンを葬った。それは相手の最善を考えたからである。

物語の結末は一つであるから、選択肢がないように思えるが、実際の世界は違う。

我々の世界は、相手を思い遣った結果、自分どう動くべきかの選択肢が複数用意されている場合がある。

選んだ選択肢の先は誰にも予想できない。

しかし、本気でその人のことを考え、ありったけで愛し、それが相手に伝わっていれば、選択肢の先の結果など小さなことではないだろうか。

例えそれで、相手との縁が切れたとしても。

我々はユミルのような愛の奴隷になってはならない。

それがエレン・イェーガーという主人公が心臓を捧げて体現したことである。アンチヒーローを演じきったエレンを讃えるとともに、最後まで読んでくださった皆さんが、最愛を叶えられることを願い文を結ぶこととする。